「Art of Gaman」イベント案内
アトランタの皆様へ、イベントのご案内です。
今回はアトランタにある博物館「The Breman Jewish Heritage & Holocaust Museum」内での期間限定の展示会「The Art of Gaman」のご紹介です。この展示は第二次世界大戦時のアメリカ本土の日系人強制収容所内で、収容者の方々が生み出した素晴らしいアート作品を観賞できるものです。アメリカでは第二次世界大戦以前から日系人を含むアジア系移民に対し、市民権を与えない等の差別が法的に認められていました。1905年の日露戦争の年、サンフランシスコの日刊紙に「日本人の侵略―現代の問題」という見出しが紙面を飾り、アメリカ国民の間で反日感情が高まります。同年5月には、アジア人排斥同盟なるものがサンフランシスコで結成されました。
今回はアトランタにある博物館「The Breman Jewish Heritage & Holocaust Museum」内での期間限定の展示会「The Art of Gaman」のご紹介です。この展示は第二次世界大戦時のアメリカ本土の日系人強制収容所内で、収容者の方々が生み出した素晴らしいアート作品を観賞できるものです。アメリカでは第二次世界大戦以前から日系人を含むアジア系移民に対し、市民権を与えない等の差別が法的に認められていました。1905年の日露戦争の年、サンフランシスコの日刊紙に「日本人の侵略―現代の問題」という見出しが紙面を飾り、アメリカ国民の間で反日感情が高まります。同年5月には、アジア人排斥同盟なるものがサンフランシスコで結成されました。
1921年カリフォルニア州トューロックで武装した白人が58人の日本人労働者を街の外へ連れ出しそして置き去りにするという事件が起こり、続いて同様の事件が西部のあちこちで頻発しました。その後、人種を理由に日本人移民は帰化を拒絶され、それまで許可されていた日本からの移民も停止されました。このように次第に「日系人」に限定した規制が強まります。そして、日本海軍艦隊による真珠湾攻撃が行われ、日米がそのまま戦争状態に突入します。アメリカ政府はその日のうちにハワイとアメリカ本土の日系コミュニティ・リーダーたちを拘束。2日間で1,300人近くの日系人一世たちが逮捕されました。実際この一世の方たちは、20年以上もアメリカに住んでいる方ばかりでした。翌年の2月19日、「大統領行政命令9066号」なる「ある地域から住民を無断で排除できる権限を、アメリカ陸軍に与える命令」に、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が署名したのです。それから12万人以上の日系人が「立ち退き」を命令されました。その12万人の日系人は「日系」が付くだけで7割以上は生まれも育ちもアメリカで、日本に行ったことがない人すらいるほどでした。残りの3割は一世の方々で前述したとおり、長年住んでいるかたばかりでした。ほとんどの方は時間制限以内に立ち退けず、警察とFBI、陸軍によって住み慣れた家を追い出され、財産も没収、凍結され、「戦時転住所」と呼ばれる強制収容所に送られました。
収容所があったのは
- マンザナー(Manzanar, California)
- ツール・レイク(Tule Lake, California)
- ポストン(Poston, Arizona)
- ヒラ・リバー(Gila River, Arizona)
- ハート・マウンテン(Heart Mountain, Wyoming)
- ミニドカ(Minidoka, Idaho)
- ローワー(Rohwer, Arkansas)
- ジェローム(Jerome, Arkansas)
- アマチ(Amache, Colorado)
- クリスタル・シティー(Crystal City, Texas)※ここは司法省が管轄する拘置所だったようです。
以上の10カ所(クリスタル・シティーは拘置所なので除く)に送られるまでの間、16カ所の「集合センタ-」に一時的に拘留されたあと、各々10カ所に送られたそうです。
強制収容所とはどのような場所だったのでしょうか。
どの収容所も市街地から遠く離れた内陸部の、それも砂漠地帯ばかり。有刺鉄線と、アメリカ軍の銃口に囲まれた施設だったようです。強制収容所の中には、簡素な住居、学校、病院、教会、お店、農場や工場が作られ、そこで働くと少々給料がもらえたそうです。各自の住居はバラック小屋でトイレは仕切りすらなく、衛生状態が悪く食中毒や感染症も流行ったようです。食事は基本的には自給自足で、荒れ地にある農場で生き延びるのは大変でした。しかし、農業に長けていた一世の方たちは野菜作りや醤油、漬け物を作ったり、家畜を飼ったりして食糧を確保したそうです。このように強制収容所内では比較的自由に動けたようですが、鉄線や銃口を終始向けられての生活は異常で、厳しいものでした。
どの収容所も市街地から遠く離れた内陸部の、それも砂漠地帯ばかり。有刺鉄線と、アメリカ軍の銃口に囲まれた施設だったようです。強制収容所の中には、簡素な住居、学校、病院、教会、お店、農場や工場が作られ、そこで働くと少々給料がもらえたそうです。各自の住居はバラック小屋でトイレは仕切りすらなく、衛生状態が悪く食中毒や感染症も流行ったようです。食事は基本的には自給自足で、荒れ地にある農場で生き延びるのは大変でした。しかし、農業に長けていた一世の方たちは野菜作りや醤油、漬け物を作ったり、家畜を飼ったりして食糧を確保したそうです。このように強制収容所内では比較的自由に動けたようですが、鉄線や銃口を終始向けられての生活は異常で、厳しいものでした。
「The Art of Gaman」は文字どおり、強制収容所内で厳しい生活を送っていた方たちが「我慢(英語訳「威厳をもって堪え忍ぶこと」)の生活の下、側にある、一見何にも使えないようなものを使って必需品を作り上げ、アート作品にまで高めたものを集めて展示したものです。Delphine Hirasunaさんという女性が、お母様の死後、ご両親の倉庫で偶然、小鳥の形のピンを見つけたことから、同じ経験をされた方を探し、同様の作品を集めたそうです。日系人の方たちは、木材の破片や、貝殻、木の実などを材料にし、素晴らしいアート作品を生み出したのです。収容所内ではリクリエーションとしてアートスクールも開講され、元々芸術家だった方や、特別なスキルを持っている方が講師となり、水彩やレタリングなどを教えたそうです。その土地の気候により作品の種類も違ったようで、ツール・レイクは貝殻を使った作品、ヒラ・リバーとポストンは鉄樹やサボテンの彫刻作品、ミニドカは石を用いた彩色画、ハート・マウンテンは刺繍画、トパーズはスレート板を使った彫刻、アマチは風景画、ジェロームとローワーは家具、マンザナーは木材でできた小さな鳥のピンです。その他、全体的に生け花や墨絵なども人気があったそうです。
Delphineさんは「The Art of Gaman」という題名の本とDVDを作成し、またこの展示会も合わせ、こういったことを世に知らしめた目的は、日系人収容者の経験を忘れないでいてほしかったからと著書の中で説明しています。
展示会の情報です。
於:The Breman Jewish Heritage & Holocaust Museum
住所:1440 Spring Street NW Atlanta GA 30309
連絡先:678-222-3700 もしくはhttp://www.thebreman.org/
期間:5/31まで
料金:大人12ドル、62歳以上8ドル、学生6ドル、3歳~6歳4ドル、3歳以下無料10人以上のグループで行くと上記の料金より半額になります。
また、ジョージア州日米協会が5月20日に、強制収容所に収容されていた方に関するドキュメンタリー映画の鑑賞会を開催するとのことなので、お知らせします。
http://jasgeorgia.org/
於:The Breman Jewish Heritage & Holocaust Museum
住所:1440 Spring Street NW Atlanta GA 30309
連絡先:678-222-3700 もしくはhttp://www.thebreman.org/
期間:5/31まで
料金:大人12ドル、62歳以上8ドル、学生6ドル、3歳~6歳4ドル、3歳以下無料10人以上のグループで行くと上記の料金より半額になります。
また、ジョージア州日米協会が5月20日に、強制収容所に収容されていた方に関するドキュメンタリー映画の鑑賞会を開催するとのことなので、お知らせします。
http://jasgeorgia.org/
アトランタは南部で、この強制収容にはあまり関わりがないようですが、日系人の苦労がにじむ作品を観賞することにより彼らの歴史を学べるまたとない機会です。一つひとつの作品には時間と気持ちが込められとても丁寧に日本人らしい細やかさとしとやかさを感じることができました。是非足を運んでみてはいかがでしょうか。